二度目の永遠を今ここで
リキア同盟――フェレ領。
東側に連なる山脈と、西側に広がるフェレリア海に囲まれたこの地は、現在フェレ侯爵エリウッドによって統治されている。
春に穴から出てくる冬眠から目覚めたクマのように時折山賊が村を襲うことはあるが、エリウッドの前以っての対策と、それが起こってからの対処が迅速なので被害は比較的少なく済んでいる。
海沿いの村々では漁業が、山麓の村では農業や牧畜がそれぞれ盛んで、フェレはそれらで成り立っていると言っても過言ではなかった。
そんな穏やかで平和なフェレ領の、滅多に人が入らないずっと山奥に、二人の男女が静かに暮らしていた。
木の板を簡単に組み立てたような、家とは到底呼べない物置小屋のような所に住んでいる彼らは、しかしとても幸せそうだった。
家の裏に小さな畑を作って数種類の野菜を育て、家の入り口周辺には山から摘んできた花やその種を植えて飾り付けた。物置小屋の様な家も、そうするだけで随分と見栄えが違う。
「ふふ。今日も綺麗に咲いてくれたのね」
ゆっくりとドアを開けて外へ出てきた少女は、朝露に濡れる花々を見回して微笑んだ。
周囲を高い木がぐるりと囲んでいてまだ陽の光が届かないために辺りは薄暗い。その中を少女は迷う事無く進み川までやってきた。食事を作るにも、野菜や花を育てるにも水は必要だ。以前は一日に何度もこの川と家を往復した。しかし最近は水を運ぶのは全て夫がしてくれているのでここに来たのは久しぶりだった。
本当は一人で川に行ってはいけないときつく言われたのだが、朝起きて顔を洗うには水が必要だ。今日は夫が出かけているので自分で水を汲みに行くしかない。
「ジャファル……どこに行ったんだろう……」
ぼんやりと水面に映る自分の顔を見つめた。母親を待つ幼い子のような顔をしている。
いつから自分は彼に惹かれていたのだろう。
いつから自分は彼なしでは生きていけなくなったのだろう。
初めて会ったときなのか、それとも信じていた者に裏切られたときか。
いつ自分の心が彼に捕らわれたのかは覚えていない。ただ、命がけで自分を守ってくれる彼に気がつけば恋をしていた。
「早く帰ってこないかな〜……」
小さな桶に水を入れて立ち上がると少女はようやく陽光が差し込み始めた道を戻っていった。
「ジャファル?」
少女が水の入った小桶を抱えて家に戻ってくると、家の周辺をキョロキョロ見回していた人物が少女に気づき勢いよく駆け寄ってきた。
「帰ってきたのね!」
元暗殺者だった夫の動きは今でも衰えることが無い。あっという間に少女の側に寄ると、嬉しそうに微笑む少女とは対照的に、夫は厳しい瞳でまだ幼さの残る妻を見下ろした。
「ニノ! 一人で家から出るなと言っただろ! 何かあったらどうする!!」
一日ぶりに会う夫の姿に喜んでいたニノは突然怒鳴られビクリと身体を強張らせた。
普段からあまり口数は多いほうではない夫は、もちろんこんな風に怒鳴ることもほどんどない。
どうしてそんなに怒るのかと反論しかけて、でもニノはそれを止めた。
分かっているのだ、夫が――ジャファルがどうしてこんなに怒っているのか。
ニノは肩を落とし俯くと小さく呟いた。
「ごめんなさい……」
言い過ぎたか、とジャファルは内心感じたが、それでも謝るつもりはなかった。
何故なら今ニノは――・・・
「明日、フェレ城に行く」
「え?」
俯いて反省していたニノは驚いて顔を上げた。夫の視線とぶつかる。
「どうして?」
「それは明日城に着いてから話す。明日の日の出前に山を下りる、今日はあまり無理をするなよ」
ジャファルはそう答えると外に並べていた大きな桶を三つ抱えて水を汲みに川へ向かった。
「何かあったのかな……」
たった今自分が戻ってきた道の奥へと消えていくジャファルの後姿を見つめながら、ニノは疑問符を浮かべた。
翌日早朝。
まだ真っ暗な中、ジャファルとニノはフェレ城へ向かうために小さな家を後にした。
久しぶりの遠出にニノは舞い上がっている。
山に隠れ住むようになったのは六年ほど前だった。それから山を一度も下りていないと言うわけではないが、下りたとしても一月に一度食料を調達するために麓まで下りるだけで、今回のように山から離れた場所に行くのは随分と久しぶりだった。
フェレ城には嘗ての上官だったエリウッドや、その妻ニニアンがいる。こんなに近くにいるのに、あの戦いのあと山に入ってからは、一度も会っていなかった。
「そう言えば、エリウッド様とニニアンに赤ちゃんが生まれたんだよね。去年聞いたから、もう一歳になってるかな?」
「ああ」
「可愛いだろうな〜赤ちゃん。いいな〜」
「そうだな」
楽しそうに話す妻のすぐ後ろを歩いているジャファルは、ニノの言葉に短く返した。が、ニノはその返事が気に食わなかったようで、立ち止まって振り返ると、ムッとジャファルを見上げた。
「ジャファル、何その興味なさげな返事!」
「……?」
嘗ての戦友が見れば、ニノの話に相槌を打つジャファルの姿にだけでも「進歩だ!」と驚愕するだろうに、この幼な妻はまだ不満があるようだ。
「他人ごとだと思っているんだったら大間違いだよ! ジャファルももうすぐお父さんになるんだから!! 分かってる?」
「あ、ああ……」
「だったら、『ああ』とか『そうだな』じゃなくて、『俺たちの子もきっと可愛いだろうな〜』ぐらい言えないの?」
ずいっと詰めより強い調子で言ってくるニノに、思わずジャファルは一歩あとずさっていた。
「………」
この幼な妻はいったいいつから、こんなに逞しくなったのか。
以前から確かに芯の強い少女だとは思っていたが、それでもこんな風に強くものを言ったり、思わず後ずさってしまうほどのオーラを感じることは無かった。
清楚でお淑やなどというお嬢様特有の女性らしさではなかったが、元気で明るく純粋で無邪気な少女だった。だが最近、幼さを少しだけ残して、大人の女性になった少女は、ジャファルが驚くほど強く逞しくなった。二十歳になったという事もその理由の一つだろうと思うが、彼女を変えた一番の理由はやはり、その身に宿った命だろう。
今ニノは妊娠している。四ヶ月目に入ったばかりだ。まだ外から見てもこの小柄な少女の中に、もう一つ命があるなど誰も分からないだろう。だが、確かにそこに命は息づいている。そして、ニノは少女から母親になった。
ジャファルは“母”という存在を知らない。知っている中で一番それに近い人物は、自分の妻であるニノの母親を演じていたあの女だろうか。だがその女は本当の“母”ではなく、何の躊躇いもなくニノを苦しませ傷つけた。だから何故誰もが“母”という存在を大切しに、“母”という存在を慕うのか、あの女しかみていないジャファルには理解し難い事だった。
だが、今、少しずつではあるが、何となく“母”というものが何なのか、分かるようになってきた。それはもちろん、一番身近な愛しい者が“母”になったから。
今、ニノの持つ“母”という力に、ジャファルは勝てないだろうと思っている。
さて、そんな大切な身体の妻を連れて、何故わざわざ山を下りるのか――というと。
ジャファルは、どうしても子供が生まれる前にしておきたい事があった。
ニノは決して口にはしないけれど、恐らく幼き日々にはそれを夢見てい事もあっただろう。
今まで何度も実行してみようと思ったのだが、自分たちが置かれている状況、人気の無い山奥に隠れる理由から、どうしても最後の一歩を踏み出せないでいた。
が、少女から大人の女性へ、そして母親へと変化を続ける妻を傍で見守っていて、やはり何か区切りになる事をしなければと思うようになった。
そしてその区切りに一番ふさわしいのは、やはりアレだろうと結論が出たのだ。
いろいろ迷った末、二週間ほど前から、とある人物に相談していた。本当は自分のような牙の残党が訪ねられるような場所でも、話せる人物でもないのだが、その人は快くジャファルを迎え入れ、そして相談に乗ってくれた。
その人物とはもちろん、フェレ侯爵エリウッドである。
山の麓の村まで行き、そこから更に南下すると集落が見えてくる。麓の村よりも一回り小さいその村には、古びた教会とニノ達が住んでいるような家が数軒建っていた。
ジャファルの後について村の中を進んでいくと、教会の前にこの村には不釣合いな立派な馬車が止まっていた。しかし村の者はこの馬車――正確には馬車に刻まれている紋章――を見慣れているらしく、驚くこともなければそれを凝視するような事もなく、普段どおりの生活をしているようだった。
「あれ? もしかしてイサドラさんですか!?」
馬車の向こうから姿を現した女性にニノは駆け寄った。イサドラはそんな少女を優しく受け止め微笑む。
「まあ、ニノさんったら。大切なお身体なのですから、あまり無理をしてはいけませんよ」
無理に走ったわけではないがとりあえず軽く注意はしておく。そして少女の後からやってきた、最近フェレ城で何度か見かけた青年に頭を下げた。
「エリウッド様の命により、お迎えに上がりました」
「感謝する……」
ジャファルの一言にニッコリ笑うと、イサドラは二人を馬車へ促した。二人がきちんと座ったのを確認してイサドラは従者に声をかける。すると馬車はゆっくりと進みだした。
並んで座る若夫婦の向かいにイサドラは腰を下ろし、見上げてくるニノにふわりと微笑んだ。ニノはどきりとして頬を染める。
イサドラはニノが理想とする大人の女性だった。共に戦っていた頃からずっと彼女に憧れていた。エリウッドが一時ニノの護衛としてイサドラを付けてくれたときなどは、密かに姉と慕っていたりもした。
そして六年ぶりに再会した彼女は、以前よりももっと美しくなっていたのだ。イサドラに微笑まれるだけでなんだか照れてしまう。男の人の気持ちが分かるような気がした。
そしてニノは、ふと気がついた。イサドラの格好に。
「あれ? イサドラさん、今日は甲冑とか身に着けていないんですね。もしかしてお休みの日だったんじゃ……」
そんな日に迎えに来てもらったなんて!とニノは顔を顰めた。するとイサドラはふふっと小さく笑って、「いいえ」と答えた。
「私、もう騎士ではないのよ。三年前に退役したから」
「え?」
「結婚したの。今は主婦業が主で、あとはエレノア様やニニアン様のお話相手かしら」
「じゃあ、ハーケンさんと?」
「ええ、子供も一人いるのよ。あと、ここにもね……」
そう言ってイサドラは自分のお腹にそっと手を当てた。ニノの大きな瞳が更に開かれキラキラ輝く。
「わあ! おめでとうございます!」
手を打ち鳴らし喜ぶニノにイサドラは苦笑して「ありがとう」と言い、それから「でも」と付け足した。
「おめでとう、は あなた達もでしょう? ニノさん、ジャファルさん、おめでとう」
えへへっと笑って、ニノは小さく呟いた。
「ありがとうございます」
三十分ほどでフェレ城に到着した。
ニノとジャファルが馬車から下りると、懐かしい面々が二人を出迎えてくれた。
エリウッドとニニアンが寄り添い、二人の後ろにはハーケンとマーカス、ローエンが控え、馬車のすぐそばにはレベッカとウィルもいた。
笑顔で迎えてくれた彼らに、懐かしさが込み上げてきて視界が滲む。
「あ……お久しぶりです……エリウッド様……ニニアン……さま、皆さん!」
ニノは溢れた涙を拭って、そして満面の笑みを返した。
その後は、大変だった。
エリウッドやニニアンにきちんとした挨拶もする暇も無く、何故だか分からないがニノはレベッカとイサドラに拉致られてしまった。城の一室――客間なのだろうか?――へ連れてこられると、今度は服を脱げと言い出す。イサドラとレベッカの勢いがあまりにもすごくて、ニノは言われるがままになった。あとからニニアンや、エリウッドの母エレノアもやってきて、何がなんだか分からないニノを飾り付けていく。
とうとうニノは、その一時間、まったく言葉を発することはなかった。
次にニノが言葉を発したのは、フェレ城内にある、小さな聖堂だった。
そこは小さな教会のような場所だとイサドラが教えてくれた。主に、フェレ侯爵家に仕える騎士同士の結婚式に用いられる聖堂だそうだ。イサドラもここでハーケンと式を挙げたらしい。
ニノは混乱したままレベッカに手を引かれ聖堂の大きな扉の前にやってきた。
「あの……レベッカさん?」
いったい今らか何が行われるのか。本当に何も分からなかった。目の前には立派な扉。レベッカはいつの間にか綺麗な服に着替えているし、ニニアンとエレノアは先に聖堂の中へ入ってしまうし……。それに、一番の問題は自分の格好だろう。これはどう見ても……。
「ほらニノ、俺の腕に掴まれ」
頭の上から声がした。その声があまりにも懐かしくて、驚いて見上げると、そこにはやはり懐かしい顔があった。
「どうして……ここに!?」
「お前の旦那に見つかっちまってな。頭を下げられちゃ、断れないだろう。あのジャファルが、だぞ」
「……ラガルトおじさん……」
「おっと。涙は後にとっときな、今は笑っとけ」
ラガルトはそう言うと、ニノの小さな手を自分の腕に絡ませて、そして扉の方を向いた。レベッカの合図で、扉はゆっくりと開く。
開いた扉の向こうには赤い絨毯の道が真っ直ぐ伸びていて、その先にはいつものように黒だけれど、でも少し違う礼装姿の夫が立っていた。
「……」
何が起こっているのか――ここまで来て気づかないわけには行かないけれど。
でも、驚きの方が大きくて、ニノはまだ少し困惑していた。
小さな聖堂であるためあっという間にジャファルの元へ辿りつき、ラガルトから夫へニノを託された。
「ジャファル……」
涙の浮かぶ瞳で見上げれば、ジャファルはそっと人差し指でニノの涙を拭った。そして珍しく表情を緩め、僅かに笑みを浮かべる。
「遅くなったが、結婚式だ」
「……だって……だってこんな……」
こんな素敵な場所で、こんな綺麗な衣装を着て、仲間に見守られて結婚式を挙げるなんて……夢にも思わなかった。いや、式を挙げるという事自体、考えもしなかった。
ジャファルの傍にいられる、ずっとずっと。
ただそれだけで嬉しくて、それ以上を求めようと思ったことはなくて。
だからまさか――・・・
「どうしようジャファル……」
「??」
ニノの言葉に小首を傾げるジャファル。ニノは止まらない涙を自分で拭い、不思議そうにしている夫を見上げて微笑んだ。
「嬉しくて死んじゃいそう!」
式が終わって新郎新婦を囲みながら皆で広い回廊へと出ると、いつの間にかラガルトの姿はなくなっていた。
「雇い主の所へ戻ったんだろう」
お礼が言いたかったのにと呟いた妻の言葉に、ジャファルはそう答えた。ニノはジャファルの横顔を見上げる。
「ジャファル……」
「なんだ?」
「あのね……」
「ん?」
もじもじと小さな声でニノは何か言っているが、ジャファルは聞き取る事が出来ず、ニノの口へ耳を寄せた。
するとその瞬間、頬に柔らかいものが触れた。
驚いてジャファルがニノを見下ろすと、思ったよりもニノの顔が近いところにあった。
「ふふ。ジャファル、ありがとう」
「ニノ」
「大好きよ」
そう言うとニノはジャファルの胸にぎゅっと抱きついた。
「ああ、俺もだ……ニノ」
ニノの背に腕を回し、抱きしめ返す。
レベッカのきゃ〜っと言う声に続き、ウィルのからかう声が飛んでくる。
そのあと、周囲はまた賑やかになり、しつこいキスコールに二人が観念して口付けを交わすと、より一層その場は沸き立った。
そうしてジャファルとニノは、大切な仲間の見守る中で、二度目の永遠を誓った――。
END