始まりは、一輪の花



「ニノ!」
帰宅したら、直ぐに元気な顔を見せてくれるはずのジャファルの声が、庭からしたのに驚いて、ニノはパタパタと可愛らしい足音を立てながら、夫の声のする方へと向かった。
「どうしたのジャファル?」
「ニノ、これを見てくれ」
「…わぁ……」
そこにあったのは、一輪の花。
野花にしては立派な、白い、百合の花。
今しがた植えられたと思われるその花は、賑わう花壇の一角で確かな存在を主張していた。
夕日を浴びて茜色に染まった花弁は少しくたびれて見えたけれど、健気に咲く様はニノを喜ばせた。
「かわいい…」
「そうか、気に入ってもらえて良かった」
「うん、ありがとうジャファル!」
うっとりと花に見とれているニノに満足し、ジャファルはいつもの堅い表情を少し緩めて微笑んだ。

ジャファルとニノが暮らす家には、小さいながらも手入れの行き届いた花壇がある。
それは、この家で暮らし始める以前からニノが夢だと語っていた「お花でいっぱいのお家に住みたい」と言う願いを叶えるために、ジャファルが整えたものだった。
花壇に植えられている花は主に野山から摘んできたもので、きちんと栽培された見栄えの良い花などではなかったけれど、ニノはその自然で素朴な可愛さを気に入っていた。
そうやってニノが喜ぶものだからジャファルも嬉しくて、外出する度に目に付いた花を持ち帰るようになっていた。
ジャファルは根を傷つけないようにと、小さなシャベルまで常備して、摘んだ花を布にくるんで大切に持ち帰る。ジャファルから贈られた花はニノの宝物で、彼女なりに精一杯大事に育てられた。
中には土が合わずに枯れてしまうものもあったけれど、種を落としたり根付いたりして次の年も同じように咲く花もあり、ニノをとても喜ばせた。

「ようこそ我が家へ」
花にそう話しかけ、ニノは嬉しそうにその花弁に触れた。
今は少ししおれているけれど、早く元気になってくれるといいな…そんな願いを込めて。
「随分増えたな…」
ジャファルの言う通り花壇の花は少しずつではあるが確かに増えていた。
ニノの夢である花いっぱいの花壇が実現する日も近いだろう。
「ねぇジャファル…覚えている?」
「何をだ?」
ニノは今日花壇に仲間入りしたばかりの百合の花を指差す。
「この花、ジャファルが初めてくれた花と同じなの」
「……ああ、そうだな」
言われてみれば確かにその花には見覚えがあった。
懐かしさにジャファルは目を細める。



それは…遠いようで近い昔のこと。
ジャファルとニノが、リキアの公子が率いる軍に所属していた頃の話だ。
与えられた任務を果たし終え、本陣に戻ろうとしたジャファルはその途中、一輪の百合が咲いているのを見かけた。
そこは切り立った岩肌の崖で、常人なら足を踏み入れる事さえ困難な場所。
そんな所で健気に咲く花は、彼の愛しい少女を連想させてジャファルの目をひいた。

ニノに見せたい。
確かニノは『花』に分類される植物を、ことの他好いていた。
この場にニノを連れてくるのは難しい。ならば花を持ち帰る方が合理的だ。

ジャファルは僅かなとっかかりを利用して崖を上ると手を伸ばし、花の茎に手をかけた所ではたと気付く。
これは、花の命を奪う行為ではないかと。
「………」
ジャファルは額に脂汗を浮かべ、眉間に皺を寄せて考えた。

どうすれば花を殺さず、ニノにこの花を見せる事が出来るだろう?
花は、葉から光を、根から水と栄養を補給しなければ生きてはいけない。どの部位を欠いても駄目だ。
……なら、どうする?

答えは簡単だった。

どの場所も欠いてはいけないのなら、全て持ち帰れば良いのだ。

ジャファルは腰から短刀を引き抜くと、堅い土を掘り返し始めた。
人を切り裂く事以外に使用したことのない道具を、たった一輪の花を生かすために使う…それは滑稽な事かもしれない。
だが、少年は真剣だった。


「ジャファル…このお花、あたしにくれるの?」
任務から戻ったジャファルを待っていたニノは、彼が手にしていた白い百合の花に気付き、そう尋ねた。
ジャファルは頷き、根の部分を土ごと布で包んだその花を、ニノに差し出した。
「お前に見せたかったから…」
「嬉しい…ありがとうジャファル!」
満面の笑みを浮かべてニノがお礼を言うと、ジャファルはよかったと胸を撫で下ろした。
「えへへ…お花もらうのって初めてなんだ」
「そうなのか?」

贅沢な暮らしを好むソーニャの娘として、何不自由なく暮らしていたニノだから、花をもらったことくらいあると思っていた…そう尋ねるとニノはそんなことないよと首を横に振る。
「そりゃ部屋にはお花もあったけど、母さ…ソーニャがあたしにくれたお花じゃなくて部屋の一部みたいな…うーん、うまく言えないけど、それはあたしのためのお花じゃないんだ。だから、ジャファルがあたしのためにお花を持ってきてくれて本当に嬉しいの」
ソーニャの用意させた花はニノのためでなく、ニノをよく見せようとした、結局は自分のための花。
ジャファルが持ってきた花はただ純粋にニノに見せたい、ニノを喜ばせたいという相手のための花。
そのように理解したジャファルは、ニノの予想以上の喜び方が納得出来た気がした。

「いい香り…花の香りだけじゃなくて、土の香りもするね」
「ニノ、汚れる」
ニノが根をくるんだ布を取り外そうとするのを見て、ジャファルは慌てた。
「いいの」
ニノは制止を聞かず布を取り払うと、泥だらけの根にそっと触れた。
通常、女性に贈る花は切り花と相場は決まっている。それなのにこの花は、あるがままの形で贈られた。
世間の常識などジャファルが知るはずはなかったとしても、その意味する所は、花を傷付けまいとするジャファルの優しい心。そして…
「ジャファル…お花を切らないで居てくれてありがとう」
ニノは服が汚れるのも厭わずに、そっと花を抱き寄せる。すると瑞々しく甘い香りが…「生きている」香りが更に強く漂ってきて、少女の胸は暖かい想いで満たされた。

実は、ニノは花が好きだが、切り花はあまり好きではない。
無数に群生している小さな花はその限りではないが、このような飾る事に適した大きめの花が切られているのを見ると、嫌な気持ちになる。
それは、ソーニャがニノの部屋に飾った「自分を良く見せる」為の花が切り花だったこともあるが、単純に、生を奪われ加工されたその姿に、苦い印象を覚えるのだ。
これは自然の精霊と親しいニノだから持ち得た感覚だが、それをジャファルが理解してくれた…いや、理解していてくれた事に、ニノはたまらない気持ちになる。
そしてまた「ありがとう」と呟いた。何度も。何度も。

女性どころか他者に花を贈る事すら初めてのジャファルは当然「花を贈る」という行為が女性にとって特別な事だと知りはしない。
ただ、喜ぶニノの顔をまた見たいと思った。
喜ばせたいと思った。何度も。何度も。限りなく。


「ここでいいかな?」
ジャファルが考え込んでいる間に、ニノは花を植える場所を探していたようだ。
ニノが指差す場所は日当たりもよく土も肥えているように見えたからジャファルは大丈夫だろうと頷いた。
「ねえジャファル、せっかくだから花壇みたいにできないかな?」
「花壇?」
「うん。本当はレンガとかあるといいんだけど…ほら、石とか拾ってきて…」
「ああ…」
辺りを見回すと手頃な大きさの石がいくつか落ちていた。
「まずは、花を土に植えてやろう」
「うん!」
ジャファルが穴を掘り、そこにニノは花の根を静かに埋めた。
そしてそっと土をかけて水をかける…花が嬉しそうにしてるというのはニノの言葉。
「じゃあ、周りに石を置いて…」
「分かった」
こうして即席の花壇ができあがり、満足そうなニノは改めてジャファルにありがとうと笑った。
そして自分の夢を語ったのだ…いつか、花でいっぱいの花壇がある家に住みたいと。



「…懐かしいね」
「…ああ」
ニノも懐かしさに目を細める。
あれから幾度ジャファルに花を贈られただろう。
ニノの笑顔見たさに持ち帰られたその花達は、ジャファルの願い通り、贈る数だけの笑顔をくれた。
だが、それはニノも同じこと。
花を差し出すジャファルのはにかんだ笑顔こそが、ニノにとって何よりの贈り物なのだから。
優しい空気が二人を包む…
「あっ…そうだ! ねぇジャファル、裏の畑がすごいの!」
「凄い?」
「うん、見に来て」
何故なのか尋ねようとするも、ニノはいいからいいからと答えようとはせず、ジャファルの手を強く引く。

ジャファルとニノが住む家の周りには小さな畑がある。
家の前に一つ。そして裏に一つ。
家の前の畑は冬の間も細々とだが使用し今も若葉を賑わせているが、裏の畑は今の所、時々灰を撒いたりして手入れをする以外は休ませていた。
つまりは、何も面白い所は無いはずである。
だが…

「これは…」
畑一面を、濃いピンク色の絨毯が覆っていた。
「ね、凄いでしょ?」
ニノはそのまま花畑の中に身を踊らせる。
ジャファルはしゃがんで花を確認すると納得した。
「蓮華か…」
そう言えば去年。
畑の肥やしになるという植物の種を貰い撒いたのだった。
だが、まさかこんなに綺麗な花が咲くと思っていなかったジャファルは、声もなくこの光景に目を奪われていた。
夕日の射す中、花と戯れる少女の姿。
「ジャファルー!」
澄んだ少女の呼ぶ声。
それは幸せに満ちていた。

ジャファルが軽く手を上げると彼女は嬉しそうに駆け寄ってきた。
「ね、ね、すごいでしょ?」
きらきらと瞳を輝かせるニノの頭を、ジャファルは優しく撫でた。
「いつの間にか叶っていたんだな…」
「え?」
「お前の…夢」
そう、お花でいっぱいの家に住みたいというニノの夢は叶っていたのだ。

「あ…そうだね」
ここから家の方を見ると、小さな家がまるで花に囲まれているように見える。
「うん…ありがとうジャファル。ジャファルのおかげだよ」
ジャファルが持ってきてくれたたくさんの花。
畑に撒いてくれたたくさんの花の種。
それらはニノの夢を叶え、ニノの笑顔を更に輝かす。
それはジャファルにとって何よりの宝物。

幸せで一杯の二人を春の暖かな風が包む。
春の花の柔らかな香りを乗せて…




あとがき

故子です。
今回は春らしく花をテーマにしてみました。新婚ジャファニノ好き過ぎてすみません。
蓮華は土を肥やす植物で、近所の畑に蒔かれていたのを思い出して書きました。一面ピンクでそりゃあ綺麗だったものです。けれど、そこは今、住宅地。
月日の経つのは早いものです。

駒緒です。
気候も暖かくなり、あったかいお話が書きたいなと思っていたのでちょうど花がテーマのが書けてよかったです。
蓮華草も白詰草とは違った花冠を作って遊んだのをふと思い出しました…あのピンクの花畑もいいですよね。
ニノはジャファルの心に花を咲かせてるんだろうな…とか思いつつ、読んでくださってありがとうございました。


2008.4.7